鹿子裕文「へろへろ 雑誌『ヨレヨレ』と「宅老所よりあい」の人々」

プロレスラーの小島聡「1+1は2じゃないぞ。オレたちは1+1で200だ!10倍だぞ10倍」と言ったそうだけど、それをやってのけてしまった人たちの愉快なお話がつまったエッセイを読んだ。

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勢いに任せて読んでしまった。勢いのある文章がなかなかどうして面白くて、悲壮感がなくてこの内容にマッチした文章だなと。これが真面目な文章だったら正直最初の20ページくらいでギブアップしている自信がある。このへらへらした感じの文章だから読み終えられた気がする。

福岡にある「宅老所よりあい」ができるまで、できてからのエッセイなのだけど、出てくる人たちがだいたいとんでもない。いや、多分ぱっと見ふつうの人々なんだろうけど、内面を見るとだいたいとんでもない。個性が爆発している。面白すぎる。著者の誇張もあるのだろうとは思いつつ、個性的すぎる。なんでこんな人たちが一個の目標に向かってまとまるんだ。すげえな。

「一人の困ったお年寄りからはじめる」「一人の困ったお年寄りからはじまる」というのをわかっていれば確かに当然の流れだよね、と思うけれど、何も知らない人たちからみれば、なんと行き当たりばったりなのか、となりそうで。それでも、なんだかんだやってのけてしまう勢いと、勢いを支えている信念や作戦がすさまじい。うまく行かないこともたくさんあるけれど、それでもへこたれず笑い飛ばしてどうにかする、そうしてるうちに共感してくれる人やお金出してくれる人たちが集まってきてでけえことを成し遂げてしまう。

なんだか最近、閉塞感とでもいうのだろうか、世の中のどん詰まりな雰囲気を感じてしまうことが多いけれど、こういう人たちがいるのかあと思うと、じつは勝手に閉塞感的なものがあると思い込んでいるだけなのかなあ、とか思ってしまう部分もある。下村さんみたいな勢いのあるおばちゃんになりたい。

今ならクラウドファンディングとかでこういうことをやったりするのかもしれないけれど、この本に出てくる人たちはそれを自らの手や足や言葉でどうにかしてしてしまう。うわあ今度こそ無理だろ、と思っても、なんとか100円200円を積み上げて、どうにかしてしまう。どうにもならないかもしれないかもしれないけれど、どうにもならないと確定するまで、いろいろなひとやもの、制度を巻き込みながら必死に泥臭いことを積み上げていく。ゲラゲラ笑い飛ばしながら。
その渦に巻き込まれてしまった人を「また被害者が増えた」と著者は書いている。ぱっと見ホントひどい書き方なんだけど、巻き込まれたという意味では確かに被害者としか書きようがないのかもしれない。そして、身近に居たら確かに巻き込まれてるだろうなという勢いを感じる。げに恐ろしや。

こういうことをやっていたら「意識高い系」と揶揄されるようなタイプの人たちが来そうだなと思って読み進めてたら、実際来てたしすぐいなくなったという話があってやはりそうか……と思ってしまった。実際にはそういうタイプではないのかもしれないけれど。
ユートピアなんて頭の中以外にはない。表面だけ見て知ったつもりになるな。深く潜ってこそ分かることもあるし、面白いんだろ。」という趣旨の文章はそりゃそうだよなと思うと同時に、なかなかそれをその通りに実行できる人というのは少ないだろうとも思う。少なくとも自分には難しい。すぐめんどくさくなる。深く深く潜る覚悟なんてそう簡単に持つことはできない。
著者は自分をわりと卑下しているように読めるけれど、完全に巻き込まれた形ではあるけれど、それでもなんだかんだやってのけてしまっているわけで。いうほど卑下しなくたっていいんじゃないだろうか、と思ってしまった。

介護の現場はすごくしんどくて大変だと聞くし、実際この本からもカタストロフの片鱗を感じる瞬間が何度もあった。楽しそうにやっているけれど、実際めちゃくちゃしんどそうだし、実際それで辞めていく人も居たらしいと。そのあたりを考えると、もうちょっとこう、せめてお金の面だけでもいいからなんかいい感じにならんのかなあ、などと思ってしまった。
あと、そういう現場があることから目を背けちゃいかんなとも。わたしも早死にしない限りはいつか歳を取るしたぶんボケる。自然の摂理なので。今そういうところに目を向けてなんとなく気にしておくのは、いつか歳を取ったときの自分の為にもなるのかもしれないなあ、などと考えている。まあ、正直、考えたいこと気にしておきたいことはたくさんあって、それを増やすのはしんどいんだけど、せめて避けないように、まるで存在しないように扱うことだけはやめておこう。と思った。